a quarter century flame

SECRET SPHERE「Portrait Of A Dying Heart」ストーリー翻訳

『彼女は夜に従う』
ストーリー by コスタンツァ・コロンボ

イタリア語英訳 by ダニエラ・イノセンチ

『プロローグ』

 旅人たちは通りを汚していた。それはまるで、X.が今や慎重に避ける術を知っていたぬかるみのようだった。他の誰かが衣裳を着せ、指示を出し、そしてステージに送り出した傀儡のごとき通行人役たちは、無理やり自らを偽りの存在に順応させていた。X.はそんな一人ではなかった。だがそれは、彼女がいざという時の避難口を知っていたからに他ならなかった。にもかかわらず、時間ぴったりに世界は再び回り始めており、彼女を眠りから叩き起こし、彼女の行き先が定められたあの列車に乗ることを強いるのだった。乗車を前にして、X.はプラットフォームの屋根の下にできた影に目を遣り、そこに夜の最後の瞬間が潜んでいるのを認めた。水に溶かしたセメントから立ち上がる捉えどころのない認識のようなものだ。X.は早くもノスタルジアの波が打ち寄せるのを感じていた。

 車輪をきしらせながら列車が出発すると、X.はお決まりの窓側に腰を下ろし、夜明け----彼女を悩ますものだ----に見張り番をさせた。幸いなことに、窓ガラスがあまりに汚れていたため淡い光はほとんど彼女には届かず、高い煙突の並んだ醜い風景は彼女の視界には入らなかった。車内は寒く、侘しいほどに誰もいなかったが、それはX.の望むところだった----まるで彼女の専用列車のようであり、誰からも見詰められることなく、また苦手な微笑みを要求されることもないからだ。鋼のコンテナの人質となりながら、X.はまどろむ田園地帯を突き進んでいた。その一方で、彼女を待ち構えていた必然が、彼女の夢の名残りを消し去るのだった。

時計の針の10周目。X.は再び列車に乗り込むのだった。情け容赦ない単調さによって繋ぎ合わされた出来事からなる、代りばえのしない一日の犠牲者だ。それらの出来事は、風味や色彩を欠くものや不明瞭な背景の雑音がすぐに忘れ去られるのと同様に、既に消えかかっていた。目的地に着くと、彼女はその黒靴で地面を踏みしめながら、大通りへと通じる歩道を辿った。幸運にも、フジの花の香りが彼女の下ろされていた睫毛の下あたりに漂ってきて、視線をヒビの入ったアスファルトから上げさせたのだ。歩道は空に浮かぶ雲と平行に走っており、X.は自分と嵐のどちらが先に着くかに思いを巡らせた。彼女は心のどこかで雨の冷たい抱擁を望んでいた。あたかもそれが苦悩の跡を洗い流してくれるのではないかというように...。それは慢性的な憂鬱からの原始的な浄化作用のようなものだ。家の玄関をまたぐと、X.は厳かに鍵を回し、四方を壁で囲まれたこの空間から現実を閉め出した。そこはほどなく息を吹き返し、自ら変貌を遂げるのだった。

 今や彼女は空想とただ独り向き合っていた。蘇生への切迫した欲求とただ独り向き合っていた。眠りが彼女を誘う場所はみな、現実の生活が彼女を縛り付けていた場所よりもマシだった。横になる前に、X.は日記を開き、最後のページをじっと見詰めた。そこから彼女は、無限の可能性を秘めた夢の航海へと再び乗り出すのだった。

 

『逃避』

第282夜

 X.のブーツは歩きたがっていた。そこで彼女はそれらを満足させてやることにし、旅ゆく人々の流れに混じるのだった。彼女は、題名も詞も分からないゆえになお一層興味をそそられる、古い歌が流れてくるのを耳にした。色褪せたジーンズと同じように古びたヴァースは、彼女が星の下でのこの新たな散歩のためにそれを履くことを許した。他のほとんどの夢航海士と違い、X.は自分の夢のために夜の設定を、澄み渡る冬の闇夜を選んでいた。オリオン座----彼女が実生活で認識していた唯一の星座だ----が、彼女のイマジネーションを覆う藍色の円蓋を見下ろしていた。彼女が繰り返し部分を口ずさんでいると、過ぎ去った夜に抱いた、皮ジャケットのようにへばりつく感情が、今一度彼女を包み込んだ。たちまち衣服が現れ、彼女の髪をふさふさとした巻き髪へと変貌させていた氷のような魔法から、彼女を守るのだった。ナイトクラブのネオンの灯りは、彼女の歩く舗道の反対側で空中を漂い、熱気を帯びていたが、その一方で中から聴こえてくる楽器はチューニングされたくてうずうずしていた。X.は、ポケットに手を滑り込ませると、デジタル時計を取り出した。時間が読めないと分かると、彼女は笑みを浮かべ、それをポケットに戻し、再び歩き始めた。

 入り口と思われるものの一つに足を踏み入れると、X.はうっすらと紫色に染まり、一方、彼女の回りにある派手な色彩のギターは赤や黄色に輝いた。X.がフラッドライトの下で踊っている自分に気づくと、彼女の暗い色の衣服が色彩を帯びて揺れ動き、まるで液体金属のごとく彼女の肌の上で溶けていった。影が、音楽のリズムに合わせながら彼女の周りで生き生きと鼓動を鳴らした。この次元ではあらゆる感情が増幅された。歓喜や情熱は制限知らずであった。彼女は自分を取り囲む群衆とあらゆるものを共有した。そこには、彼女の脳が生み出した単なるエキストラもいれば、彼ら自身が夢航海士である者たちもいた。実際、より高い技能を持つ者たちは、自分自身の領域を越え、他人の夢に入り込むことができた。X.は、そうしたことが起こるたびに、彼らとの交流を楽しんだ。とはいえ、彼らの姿はぼやけたままだったが...。幻影が不完全であることは避けられないことだった----他人の領域で実体化するのに必要な霊的エネルギーは極めて高く、その時までは、誰一人としてそれをもたらしてはくれなかった。

 突然、X.は新たな魂が現れたことに気づいた。彼女は、彼が大群衆の中を自分の方へと進んでくるのを感じた。X.は追い求めるのも求められるのも、誘惑するのもされるのも大いに楽しんだ。言うまでもなく、自分自身が創造したこの世界では彼女が傷つく心配はなかった----あらゆる経験が満足以外の何ものでもなく、いつでも彼女はそれを存分に楽しんだ。毎朝、夜明けと共に再び被らなければいけない仮面はここでは必要なく、むしろ、ここでは恨みを晴らすことさえできた。彼が近づいてくる時、X.はその夜を先取りして味わっていた。互いに惹かれ合うことは明らかで、X.は、その強靭な肉体が彼女のそれに押し付けられる感触を想像し、ほくそ笑んだ。彼女はそれ以上を望むべくもなかった。だが、X.に予見できなかったのは、彼が彼女を抱擁したその瞬間、彼女の夢が打ち破られることだった。

 突然の目覚めであった----そして、現実への苦々しい帰還であった。
「何週間も訪問者を待ち望んでいたのに、現れたとたんに目覚めてしまったの?」
目は閉じたまま、X.はベッドサイド・テーブルに置いてあった日記に手を延ばした。そして左手で電灯を灯し、記憶に残る一切を衝動的に書き留めた。ほどなく、起床時間に妨げられて全てが消え去ってしまった。
「束の間の、しかし圧倒的な出会い、
あんなに強いオーラは初めてだわ。
たぶん、だからこそあんな風に終わったのかも?
彼の手触りは暖かくて確かで、ちょうどよかった。
また会えるのかしら?」
この疑問は日の出まで彼女を苛み、彼への妄念は次の日の入りまで消えなかった。

 

第283夜

 X.は急いで飛び出した。辛うじて自分の姿を鏡に映し、そこに見出した自我の不在を誇りに思うことができた。外には空と道しかなかった----ビルも星もなかった。シナリオを心に描く時間はなかった。もっとも、彼だけが彼女の望むものであり、それ以外のことはどうでもよかった。X.は夢の中で、薄暗い歩道を裸足で駆けていった。まるで足に翼が生えたかのような速さだった。つまずく危険も顧みず、彼女は自分の心臓の鼓動よりも速く走った。そして、駆けながら思いを巡らせた。彼はまだそこにいるだろうか?私を待っていてくれるだろうか? 彼女はさらに速さを増しながら、既に彼を失ったのではないかという怖れをも追い抜いていた。

 両手をいっぱいに伸ばすと、X.は唯一そこにあったナイトクラブのドアに猛然とぶつかっていった。そして、部屋の中へと入り込むと、暗闇でしばらく何も見えなくなった。彼女は手探りで動き回りながら、躍起になって彼の痕跡を探し出そうとしたが、そこには誰もいなかった。X.は、寒さと失望の板挟みとなり、震えを感じた。突然彼女は、ナイトガウンを身に纏っただけで家を飛び出したことに気づいた。だが、今更どうすることもできなかった。というのも、闇雲に走ったことで彼女は力を使い果たしてしまったからだ。疲れ果てた彼女は床にへたり込み、両手に顔を埋めた。怒りの表情を隠すためだ。
涙が落ちたその瞬間、一つの音が静寂を打ち破った。それは彼女の目の前の闇から発せられていた。そしてそこに薄青のオーラが現れ、彼女を手招きし、椅子に腰掛けるよう促した。その背もたれには、まるで劇場のカーテンのような深紫の服が掛けられていた。
Y.だった。

X.は涙を拭い、温かいマントにくるまった。彼女は、椅子に座ってベース・ギターをかき鳴らす彼のシルエットに気づいた。X.は腰掛け、頬杖をつきながら腕を椅子の背もたれに預けた。Y.が弦を鳴らすと、彼らの間の空気が振動した。コードが進むたびに、彼の指はその存在感を増していった。そして彼女は彼を見つめ、うっとりとした。彼のタッチは力強くも繊細であった。大胆でありながら耳に残るその音楽は、あたかも彼女の肉体そのものをかき鳴らすかのごとく、彼女の中で鳴り響いた。彼女には彼の姿は見えなかったが、彼のことをこれまでの人生で出会った誰よりも身近に感じるのだった。それゆえに彼女は、彼が楽譜ではなく感情や記憶の流れに任せて演奏していることを悟った。それはまるで、彼がかつての自分のあらゆる瞬間を打ち消そうとしているかのようだった。X.はクレッシェンドや気怠いフェルマータにそれを見て取った。音楽は突如としてテンポを上げた。あたかも、するりと逃げる興奮を、遠くの蜃気楼を追い掛けるかのように...。X.は何が起こっているのか分からなかったが、次々と繰り出される音は彼女の心を奪い去った。もはや休止や静寂はなく、完全なる精神錯乱の限界へ、恍惚へ、そして終焉へと向かう、飽くなき追求があるのみだった。
一本の弦が切れた。Y.の苦悩がX.の心の中で急激に拡大したところで、彼女は目を覚ました。

彼女は、まるで重荷を背負わされているかのように、息も絶え絶えに目を覚ました。そして起き上がると、荒々しく窓を開けた。彼女の眼下を走る通りでは、生命がよどみなく往来していた。彼女の苦悩に気づくこともなく...。そんな世界にうんざりしたX.は、薄闇の中へと逃げ込み、日記の前へと腰を下ろした。空白のページが、雪解けを待つ痩せた蝶のように彼女を見つめていた。X.はページに鉛筆を押し当て、そこに筆跡とノスタルジアを刻み込もうとしていた。そのようにして、あの夜に感じたことは彼女の中に消えることなく留まるのだった。
「何があなたに起こったの?
何があなたの音楽を台無しにしたの?」
X.はラジオに手を伸ばしたが、それは何の役にも立たなかった。何の感情もない退屈な消費主義に過ぎなかった。X.は虚空を漂い、訳もなく唸り声や金切り声を上げる何本かのギターに出会った。そこには、彼女にY.のことを、彼女に演奏を捧げてくれたあの柔らかな指を、思い出させてくれるものはなかった。
「あなたは私のために演奏してくれた初めての人だった。
私に魂を見せてくれた初めての人だった」
灰色の制服を身に纏おうと立ち上がる前に、X.は苦しみを課せられていたページを優しく撫で、最後にもう一つ考えをしたためた。それが彼女自身の死刑執行令状へのサインであるとは気づかずに…。
「単なる影に過ぎない。それでも、生身の人間を遥かに超えた存在だわ」

 

第284夜

 X.は深い闇の中で目覚めた。
彼女のシナリオのあらゆる部分が消失してしまい、残されたのは生まれたばかりの星だけだった。その光の粒だけが彼女の感知できる唯一の要素だった。彼女の身体さえも見えなくなっていた。それでも彼女は喪失感を覚えていなかった。それを彼の痕跡だと捉えると、彼女は近づいていった。すると、小さな炎が点滅した。消えてしまうのではないかと怖れた彼女は、それを守ろうとするかのように手をかざした。すると、灯りは大きくなり、暖かい炎の舌へと変貌した。赤い輝きの中で、まずは彼女の手が実体を取り戻した。再び彼女という存在に巣食う闇を色付けることとなる、新たな兆しであった。

 そしてY.は、あの心許ない希望の源だった。彼女は彼をすぐそばに感じ、彼の意志と決意を察知した。彼は彼女と共にここにいて、キャンドルを手に、彼女の怖れが生み出した未知のものを貫く道に、光を当てるのだった。言葉を発することなく、Y.は彼女の手を取り、ぎゅっと握りしめた。その握りしめる手の温もりが指から心臓へと広がっていき、X.は人生で初めて安らぎを感じた。彼女は、彼も彼女と同じ枯渇と喪失に苛まれていることを悟った。彼は、いかなる見極めも必要とせず理解することができた。毒と孤独の味わいを知っていたのだ。彼は彼女と似ていた。同じ原型の二つの断片だった。空虚な現実の中で道に迷った二つの魂だった。自らの感受性の犠牲者である彼らは、他人が期待するものに自身を適合させることができなかった。絶えず物事の本質を探し、利潤にしか関心を示さない世界にある侘しい部屋以上のものを求めていた。Y.は、人生を自分の肌に合わせて解釈するという、人は異なる方法に対して糾弾を受けていた。魂の交響曲に反応しない心と共に生きていこうとする人々から理解されるのは困難だった。
二人は一瞬で認め合うことができた----そして、その刹那、彼が扉を荒々しく開け放つと、そこから眩い光が放たれた。

 X.は新たな安らぎを感じながら目を覚ました。そして、夜には彼のもとに舞い戻り、二人であの敷居を、闇と光の、夜と昼の境界を越えるのだ、ということを確信して安堵した。

 

第285夜

 新たなシナリオ。白い空、青く清らかな大地。舞台中央には、カンヴァスを前にした二人の人物。Y.が前にいて、手には絵筆が握られている。彼は、絵を描くためにX.の夢への覚醒を待っていたのだ。彼女はやや後ろに立っており、ようやく彼の姿を見ることができた。Y.は、その波打つ黒髪を際立たせる白い衣服を身に纏っていた。彼女は未だ彼の顔をその目に捉えることができないでいたが、まもなく夜が訪れることを知っていた。心から安らかな気持ちであったX.は、彼が絵の最初の部分を描いていくのを見守っていた。Y.にはパレットの絵具は必要なかった。それらは、あたかも彼自身から自然に発生するかのように、カンヴァスに付着していくのだった。彼が雲と丘の織り成す緑の地平線を描くと、X.は感服した。続いて紺碧の海や青々とした森が描き出された。それらに埋もれるように立つのは、木と石で出来た家だった。世間から隔絶された申し分のない隠れ家だ。風景を完成させると、Y.は唯一の人物を描き始めた。夕暮れを眺める女性だった。彼女は赤いドレスに身を包んでおり、そのゆったりとしたスカートはまるで繊細なケシの花冠のようだった。

 ひとたび筆を止めると、Y.は彼女にカンヴァスから目を離すよう促した。するとX.は驚きの笑みを漏らさずにはいられなかった。目覚めた時の彼女が見ていた氷のような環境が、Y.の描き出した風景へと変貌していたのだ。彼女は、周囲の緑から放たれる芳香と、海から吹く潮風とが混じり合うのを嗅ぎ取った。家はすぐそばにあった。その場にある何かに引き寄せられたX.は、前へと進み出ると、突然真っ赤に染まった。
その瞬間、彼女は自分自身が絵の中の女性になっていたことに気づいた。

 日記を手にしたX.は、今回は書くのではなく描き始めた。彼女は夢に見た風景を描いたのだ。どんな些細な詳細をも思い出そうと必死になって、波や家の傾斜した屋根を描いた。そして彼女は立ち上がり、身に付けたいドレスを探してクローゼットを開いた...制服のどんよりとした灰色をかき分けると、探していたものがそこにあった。鮮やかな赤だ。彼女が少しも躊躇することなくそれに袖を通すと、この色が彼女にどれほど似合っているかを鏡が気付かせてくれた。もう何年もこんな気持ちになったことはなかった。空想に耽ることを止めて以来だ。だが、今や全てが変わろうとしている。彼女は、永遠に続く重労働の時間と対峙することを耐えうるものに、さらには価値あるものにしてくれる人を見つけたのだ。二人の隠れ家の戸口で彼女を待ち、いつでも彼女を抱きしめ、決して離さない人を見つけたのだ。

 

第287夜

 雲によじ登り、三日月の上に腰掛ける場所を見つけるのは、簡単なことだった。彼女の周りで飛び交う流れ星は、空をアラベスク模様に彩った。X.のイマジネーションは心臓の鼓動に併せてますます華やかとなっていき、彼女のY.への思いの上に広がっていった。今宵は、彼女が彼のために何かを創造する番だった。この間のお返しとして彼に夢を見させてあげるのだ。
X.は、ヴァイオリンの旋律のように滑らかで、ブロケードのような模様が施されたドレスを空から切り出した。そして空を渡り、水平線が世界の果てや海の始まりへと向かって湾曲する場所へと赴いた。そこにY.の家があるのだ。そこでは、彼が全身全霊で彼女を待ち望み、サファイア色の瞳で彼女を見詰めるのだった。いかなる外観をも見通すことのできる瞳、魂の隅々までを読むことのできる瞳だ。X.は、彼の前では裸も同然のような気分になった。彼らの間には何の障害もなく、あるのは純粋な共感のみだった。彼は、彼女の夢の旅の行き先であり、あらゆるものの意義であった。彼以外には何も必要なかった。その高貴な顔立ち、話す言葉、素性...。X.が彼を選んだという事実以外はどうでもよかった。彼だけが彼女の大切な夢へと足を踏み入れることを許された。あらゆる欲求を満たしてくれる人のために彼女が大切に育ててきた夢だ。
彼女は彼の手を引き、空から波の下へと続く真珠色の階段を下っていった。そこでは、星たちがもう二度と沈まなくてもいいように、身を潜めていた。ゆったりと踊る潮をくぐり抜けると、X.は彼を波の陽気なあぶくの中へと引き込み、さらには、セイレーンの魅惑の歌で彼に求愛した。二人は、夢の無重力状態の中で、二人を結びつけることを運命づける欲望の嵐の中で漂った。彼は、彼女のあらゆるエネルギーの触媒となる、正真正銘の美であり激しい衝動であった.....そして、彼女は彼と深く愛に陥っていたのだった。
X.は、二人を隔てる潮流の上に乗り、彼にキスをした。欲望を帯びた現実の唇が現れ、彼女を迎え入れた。一瞬の完全なコミュニケーションは永遠に続くこととなった。
すると何かが起こった。ゆっくりとした気怠い心臓の音が遠くから聞こえ、分別と本能の間で巻き起こる葛藤がこだました。彼女を優しく抱き上げると、Y.は水面へと運んだ。彼の一部は、二人が心の底から感じていたものを後方へと押しのけた。Y.は、ほんの数秒前まで二人を繋いでいた強い絆を敢えて断ち切ろうとしたのだ。彼女は彼の腕の中で抵抗し、なんとか彼の試みを食い止めようとした。だが、彼は彼女を波打ち際に置き、たちまち波間に消えてしまった。
彼女は、彼のそばにいられるなら何だってするつもりだった。X.の心はそんな考えに囚われ、目覚めた後もそれは拭い去れなかった。

 理屈とは裏腹に、彼女の無意識の身体はその妄念に従った。彼女の手はレインコートを掴み、それを肩に掛けた。一方、彼女の脚は自転車を漕ぎ出し、近隣を越え、郊外を越えて、まるで地獄を抜け出したこうもりのように、海岸へと向かっていった。彼を探して、辿り着くことのできないどこかへ行ってしまった最愛の人を探して...。
波の凍てつくような感触だけは彼女を完全に目覚めさせることができたが、それも彼女の心を癒すには至らなかった。夜明けが彼女に追いついた時、彼女は潮風と自分の涙によって重苦しさを感じていた.....そして、彼を失ってしまったのではないかという怖れと、自分にどんな力があったのかという疑念によって、打ちのめされていた。あたかも、夢と現実を隔てる薄いヴェールが取り返しのつかないほどに切り裂かれたかのように...。

 

第290夜

 X.が崖へと戻ってきた時にはY.の痕跡はどこにもなかった。彼女が不安で動けなくなっていたにもかかわらず、あの家があの時と変わらずそこにあったという事実は、彼女を勇気づけ、彼女に前へ進むことを促した。彼女が家の中に足を踏み入れると、一歩進むごとに木の床がまるで彼女の不法侵入を告げるかのごとくうめき声を上げた。彼女はすぐさま、自分が家の中ではなく記憶の宝箱の中にいることを悟った。引きちぎられたページが枯れ葉のごとく床のあちこちに散らばり、風が吹くたびに揺れ、擦り切れたトランプのように混ぜ合わされていた。その場の空気は哀愁と孤独の香りを放っていた。すっかり動揺してしまったX.が落ちていた象牙色の破片を拾い上げると、それは手の中で粉々に壊れた。放置という混沌が彼女を取り囲む中、明瞭な手書きの黒い筆跡のみが共感できる要素であった。まるで言葉と感情の海に巻き起こるうねりのように、優美な曲線が連なっていた。自分の目では読むことができなかったX.は、心でそれを読み解いた。情熱的な人生の跡が、時や忘却による荒廃に抗って永遠に刻み込まれていた。それはあらゆるものの終わりを越えて残るのだ。死さえも乗り越えて...。
この屋根の下で生活をしていた人物は、書くことだけに専念していたようだった。というのも、ここにある唯一の家具が、窓のそばに置かれた書き物机だったからだ。きらきら光る塵が棚のあちこちで渦巻いていた。そこではペン先やインクつぼが、持ち主の帰りを虚しくも待ち詫びながら乾涸びていた。
X.は、創造の祭壇を包む静寂を乱すことに躊躇しながら、静かに近づいていった。その片隅には、はるか昔に血とインクを流し、それらをインスピレーションの祭壇に捧げた人の、歓喜と興奮に満ちた熱狂が、今もなお見出されるのだった。
日記は書き物机の上に置かれてあった----黒革製の薄い一冊が彼女にめくられるのを待っていた。彼女はその魅力を感じ取り、その香りさえ嗅ぎ取ることができた。そして、彼女の指が日記にそっと触れ、それを優しく紐解いた。日記を開くやいなや、彼女はY.の感情や奥深い感性の紛うことなき痕跡を見出した。そこに隠された秘密は、まさに彼の人生経験そのものだった。それは、彼が既に音楽を通して彼女に語った数々のエピソードだった。あるいはこれらのページには、あの晩の彼の行動に対する答が、彼と出会ってから彼女が絶えず自問してきたことに対する答が、あったかもしれない。もしかしたら彼女は、彼の真の正体に関するヒントを見つけたのかもしれない。彼を見つけ出す、白日の下で彼に会えるという希望は、あらゆる理性的な考えを排除してしまった。そしてX.は、目覚めてすぐに読み始めようと思い、日記を持って夢の境界を越えることを決意した。
薄い一冊を胸に抱え込むと、X.は家を飛び出し、風に乗って断崖の端へと辿り着いた。彼女の周囲のものは全て、今にも消えようとしていた----彼女は、周囲が今まさに消えかかっていることもシナリオだと感じ、目覚めが近いことを悟った。だが、彼女にはまだわずかな時間があった。計画を実行するほんの少しの時間だ。そして彼女はジャンプし、断崖の底へと向かって急降下した。

意識の片隅で、鈍い痛みが脈打っていた。身体の一部は激痛に悲鳴を上げていた。X.は辛うじて目を開けた。彼女はすぐさま何かがおかしいことに気づいた----彼女の左頬がぬかるみに浸っており、さらにはあらゆるものが、靄がかかったようにぼんやりと見えるのだった。だが胸には日記の固い感触があった。それだけで彼女はほっと胸を撫で下ろすのだった。

 サイレンの音がドアの前で止まった時、X.はまだ、自分自身の日記をしっかりと胸に抱え、寝室と玄関を繋ぐ階段の下の床に突っ伏したままだった。彼女は自らのイマジネーションの犠牲となったのだ。

 

『回復』

第1日

 X.は休息期間が必要なほど心身共に病んでいた。慌ただしい日常から逃れ、あらゆるものから距離を置いて、癒しに専念することが極めて重要だった。そこで彼女は海岸へと向かった。そこでは、引き波の単調なリズムが安らかな再生の眠りを誘発してくれるのだった。彼女が携えていたのは、わずかな荷物と、明晰夢への依存症を克服したいという願望のみだった。彼女は、太陽の光や日常のささやかな幸せを楽しむ、かつての自分に戻りたいと思っていた。夢航海に伴う激しい感情は、空虚な幻想、あるいは疲弊した心の幻覚に過ぎなかった。彼女は心を再教育し、願望を再編成する必要があった。前夜の出来事は、潜在意識のほしいままにすることがいかに危険であるかを彼女に示していた。手遅れになる前に止めなければならないのだ。
治療の鍵となるのは、環境の変化だった。そういうわけで彼女は、古代円形競技場のごとく中央が窪み、海から急斜面をなして切り立つ、丘の上へと一時的に住居を移すことにした。眼下には、夏を前にした穏やかな季節の静かな入海が広がっていた。X.は、たった一人の傍観者、あるいは未開の自然の開拓者になったような気分を味わった。彼女を取り囲む緑のあちこちには野草が生い茂り、それらの真っすぐに延びた茎のおかげで彼女は風を凌ぐことができた。
ここでは誰一人として彼女に影響も評価も失望も与えることがなかった。ここには過去の過ちや、近年彼女が苛まれてきた不安を思い出させるものはなかった。母のように安らぎを与えてくれる自然は、無条件に彼女を迎え入れた。あごを膝の上に預けながら、X.は波に映る雲を眺め、どちらがより儚いのか決めあぐねるのだった。また、剥き出しのセメントの箱の中に閉じ込められている間に、こうした空をどれだけ見逃してきたのだろう、と思いを巡らせた。他にも好ましくない疑問が意識の間際まで迫っていたが、それら全てに対する答を探すのはまだ早かった。今はただ、じっと座って太陽の光を吸収するだけで十分だった。それが彼女の青ざめた手足を温め、がっくりと落ちた肩に元気を与えるのだ。そうこうしているうちに、決して飢えや不安に苛まれることもなく、時間は刻々と過ぎていった。唯一彼女の頭にあったのは、存在しているという実感を、ずっと以前に疎外感の魔の手に落ちて失っていた感情を、取り戻すことだけだったであろう。

 

第2日

 X.の新しい家の木製の窓枠は、慎ましやかな美しさをたたえる青い海を小さく切り取っていた。夜明けの光が、平穏な眠りの最後の瞬間に包まれていた彼女を捉えた。起き上がってみると、X.の頬は温かみを帯び、瞳は生き生きとしており、それらは彼女の表情を輝かせていた。前日まで彼女の心を締め付けていた結び目は解け、彼女は健康的な海の空気を思い切り吸うことができた。X.は、苦悩から解放されたことを喜び、太陽の下へと足を踏み出した。日はすでにその歩を進め、太陽の眩い光が彼女に勇気を吹き込んだ。彼女は勢いよく丘を登っていった。頂上から水平線を見下ろしたい一心で、この丘を制覇しようと思ったのだ。風が彼女の束ねていない髪を弄び、もつれさせた。だが彼女は、通った道の脇に密生していた茂みのような気分になり、そのまま放っておいた。そして、なおも進んでいった。彼女は自らを追い立て、さらに歩いていった。一歩づつ、安住の地からどんどん遠くへと。歩いている最中もX.は、垂れ下がった白い服を持ち上げるべく腰に手を当てながら、道のあちこちに散らばった石をゆっくりと避けて通った。彼女の意識ははっきりとしていたが、全身は身体活動に集中していた。X.の身体は悲鳴を上げており、険しい坂を一歩ずつ登るたびに、彼女はどれほど自分が怠けていたかを思い知った。激しい運動は肌に汗を滲ませ、呼吸は大きく乱れてきた。だが、緑に覆われた丘の向こう側がだんだんと見えてくると、彼女はさらに進むエネルギーを得た。身体を動かすことは、彼女に生きている感覚を、リアルな感覚を与えた。X.の心臓は再び鼓動を鳴らし始めたのだ。
山頂へと到達すると、X.は大きく深呼吸をし、大きく腕を広げて風を受けた。彼女は、帆が一つのメインマストのごとく真っすぐに、微動だにせず立ち尽くし、眺望を楽しんだ。彼女を取り囲む鮮明な色彩の美しさは極めて心安らぐものであり、いかなる芸術形式もそれを永遠のものとして留めることはできなかっただろう。背景に流れる自然の交響曲は、唯一無二の感動的なものだった。渦巻く気流が、絶え間ないが決して同じではない反復で打ち寄せる波と、混じり合うのだった。X.は、驚嘆し夢想しながらも十分に分別のある、新たな眼差しで周囲を見渡した。彼女は、おとぎ話と現実が何の問題もなく混じり合う子供時代に聞いた、七つの海に点在する神秘の島の一つにいるような気分になった。当時は空想は罪ではなく、また、日常からの逃避が悪影響を及ぼすこともなかった。彼女は、あの頃に漂っていた魔法のオーラを、草原を駆けながら抱いていた自由の感覚を懐かしく思った。ジャンプするたびに、草原はアフリカの野生のサヴァンナや北欧の緑豊かなフィヨルドへと変貌していたのだ。彼女は、愛と優しさに包まれた幸せな子供時代を送っていた。何時間も歩き回る自由が与えられ、イマジネーションを働かせてあらゆる場所へと赴くことが許されていた。本を読む時には、自分が主人公と共に冒険をしていると、冒険者や伝説のヒーローの役割を演じていると想像した。だがその後、彼女の身体には変化が起こった。彼女は孤独となり、余りにも早く成長の時を迎えたのだ。年を経るにつれ、彼女は、狭い心と荒んだ気持ちで生活する人々と交わることを余儀なくされ、ついにはX.自身が自分の周りにある夢の死を受け入れるまでとなった。そのようにして夜は、彼女が現実から逃避できる唯一の時間となった。そこでは、暗闇が他の世界を消し去り、それを申し分のない背景へと変貌させるのだった。今になってようやく彼女は、夢航海が日常生活における義務へのアレルギー反応に過ぎないことを悟った。もしもそれにもっと早く気づいていたら、その想像力を芸術などの具体的な表現形式へと注ぎ込み、それを昼の世界で楽しむことができたかもしれない。X.は自分の人格を回復するための別の方法を見つけ出さなければならなかった。それは簡単ではなかったが、少なくともトライする必要があった。もしかしたら彼女は、古い習慣を取り除き、あるいはそこから自ら遠ざかり、新たなやるべきことを見つけるべきなのだ。彼女は、人生から逃げ出す代わりにそれと向き合う勇気を見つけ出さなければならなかった。歪んだ夢に耽るのではなく、白日の下で満足感を得なければならなかった。そこで彼女は自らにきっぱりと誓った。家に帰ったら自分の決意を実行に移すべく懸命の努力をしよう、と。

 

第3日

 この日、X.は新たな道を辿ることにした。海岸へと下る道だ。下りていく間、彼女の膝や踵は、だんだん険しくなるでこぼこした足場に次々と立ち向かった。それに合わせて心臓の鼓動もますます激しくなった。この日は前日よりも暑くなった。海に飛び込みたくなるには十分な暑さだった。柔らかな砂浜の向こうには穏やかな海が待ち構えていた。彼女は我慢できなくなり、まずはあてどなく波と戯れた。波が胸の高さまで達すると、彼女は水面にほとんど波を立てることなく軽やかに潜り込んだ。そして再び浮かび上がってくると、すぐさま仰向けになった。
海に浮かぶことで、X.は自分自身から解き放たれた気分になった----波が彼女を持ち上げていた。昨日の決意は彼女を重荷から解放しかのようだった。そうでなければ彼女は弱り果てていただろう。代わりに彼女は自分自身をただただ海に浮かべ、汚れなき思考の領域でそれを自分の身体から引き離した。彼女の魂は恍惚状態にあった。そして空を仰ぐと、彼女は大自然に空想のシナリオを書かせるのだった。彼女を取り巻く青空には雲の大聖堂が広がり、その周りでかもめの群れが追い掛けっこをしていた。そんな穏やかな素朴さの中で、全てが壮観だった。今回は世界の方が彼女に最高の背景を提供した。もはや彼女が自ら作り上げる必要はなくなったのだ。そうした背景の中で、彼女は夢物語よりも遥かに魅力的で独創的なストーリーを編み上げるのだった。彼女がやるべきことは、あのほとんど座ったままの生活の扉から、ほんの一歩だけ自分自身を押し出すことだけだった。そして、もっと多くの感情が伝わってくる場所、例えば瞬時に自分自身を見出すことのできる場所へと思いきって進んでいき、同じくそうした場所に惹かれている人々とその経験を共有することだけだった。これは芸術や音楽についても言えることだ。彼女はただ袖をまくって、自分自身の二つの手で、世界が彼女に用意した原材料をこね、それを自分だけの唯一無二のものへと形作ればよかった。全ては準備万端だった。だが彼女を取り巻く現実から喜びを引き出すことができるのは、彼女だけだった。その代わりに、そしてずっと長い間、彼女は退屈な灰色の要塞に自分を閉じ込めることを選び、誰も寄せつけなかったのだ。自分が過ちを犯したという自覚は彼女を激しく打ちのめした。彼女の頬には涙が伝わり、それは海へと流れ込んだ。水が水に混じり、塩が塩に溶けた。そしてまさにその時、彼女は彼女自身よりも遥かに大きいものの一端を鮮明に感じ取った。どれだけの人がこの海に浸ったことがあるのだろう? どれだけの人がこれからそうするのだろう? どれだけの人が彼女の涙の痕跡に身を浸すのだろう? その瞬間、この場所は彼女のものだった。だが過去には、それは他の誰かの心や魂が所有していたのだ。そして同じく、未来にはさらに多くの人がそれを手にするのだ。そうした考えによって彼女は慰められ、孤独じゃないと感じた。おそらくは物事を修正するにはまだ手遅れではなかっただろう。彼女がやるべきことは、新たな眼差しで周りを見回してみることだけだった。そしてさらには、その時彼女が抱いた安らかで穏やかな交わりの感覚を再現しようと努めることだけだった。

 

第32日

 夜の間際に、断崖の縁に佇み、X.は夕暮れを染める色彩の熱情に心躍らせた。この曖昧な時間帯には、水平線は心掻き乱すような緋色に覆われていたが、海は辛抱強くそれに耐えていた。X.は、昼の鮮やかな輝きと、まるで夜を思わせるような海の厳粛な魅力の狭間に捕らえられながら、自分自身をこの細い線に重ね合わせた。彼女は、この数日間に何か間違が起こっていたことを確信していた。どのように間違っていたかは分からなかったが...。彼女のそれまでの落ち着きは失われていた。日常の辟易するような単調さの犠牲となっていたのだ。夜明けが訪れるたびに新鮮さはなくなっていき、彼女の心はこうした素朴な場所では得られない新たな刺激を求めていた。さらには、Y.のことを思い出させるがゆえにこのシナリオを選んだという考え方が、彼女の心に忍び込んできていた。それを否定すればするほど、それは鮮明になっていった----この世界の片隅にも、彼女自身の隠れ家とできるだけ同じような隠れ家を探し求めていたのだ。つまりは、同じ額に入れられた別の絵ということだ。
日中はまた別の空気が漂っていたが、空が赤く染まるやいなや、彼女の肌や唇は今一度Y.の挑発的な香りを察知した。それゆえに彼女は毎晩家の戸口に立ち、消えゆく太陽を見つめるのだった。雲は日々新たな作品を生み出し、海もまた絶えず変化し続けていたが、空の色だけは、Y.の絵のそれのごとく変わらなかった。彼に対して抱いていた根強い感情を思い出させるシナリオのどこかに、超自然的な何かが潜んでいた。彼女はそれに抗うことができなかった。心と本能があの苦悩に充ちた愛、あの激しくも儚かった愛を思い出させようと企んでいたのだ。X.は、水平線の暗がりの寒色がいかにして暖色に変化していくか、群青からワイン色へ、ターコイズからピンクへ、サファイアブルーから真紅へと移ろっていくかを見るのが大好きだった。それは、意識を超えたところで共有されるかけがえのない瞬間ともいうべき、特別な時間であった。驚くべき感動を呼ぶコンサート。それはまさに彼の歌のようであり、まさに消えゆく運命にあったのだ。その後に残されたのは、目覚めるたびに彼女が感じたのと同じ気怠さを伴って沈む太陽の眩い光へと捧げられた、静かなるレクイレムだった。同時に、熱を帯びた太陽が去ると、入海は空虚の広がりを許すのだった.....それは、Y.が去った時に彼女の中に残していったものと同じだった。
日々新たな何かを発見する喜びは、それを共有する誰かがいないことで徐々に弱まっていった。その誰かとはもちろん彼のことだった。Y.。X.が世界のことを沈思する時に去来する深い思いを共有することのできる唯一の存在。どれだけ彼女が心の中から彼を追い出そうとしても、彼は光となり影となって常にそこにいた。彼の影響のマイナス要素も、彼によって伝えられた感情が巻き起こす高揚感を覆い隠すには不十分だった。彼らは、何があろうとも今も固く結ばれていた。ゆえに彼女は、あの険しい坂道も、柔らかな波しぶきも、砂の温かみも、すみれ色の夕暮れのそよ風も、彼の魂へと繋がるあの窓を通して、彼と共有していたのだ。
彼女はY.をたまらなく恋しく思った。

 

第26日

 X.は激しい雨音によって浅い眠りから引き離された。彼女は、確かに夢を見ていたのだがその内容は全く覚えておらず、そのことは彼女を不安にさせた。X.は夢の中での行動の鮮明な記憶を蓄積していた。ゆえに夢の登場人物さえ記憶に留めることなく目覚めるのは、控え目に言っても異例のことだった。就寝時、彼女はY.を求める快楽を楽しんでいたが、それ以上のものではなかった。彼女は明晰夢を求めてはいなかった。さらには、夢の主目的が他ならぬY.なのでないかと感じていた。本当に彼は、再び彼女になんとかして接触しようと試みていたのだろうか? 夢の中で彼と交わることができない中、あの夜彼女が彼を拒絶していたらどうなっていただろうか? 彼女は本当に全てを台無しにしてしまっていただろうか? 物事を正常に戻す唯一の方法は、彼に出会えることを願いながら、明晰夢へと舞い戻ることだったかもしれない。だがX.は、諦めるにはまだ早いと信じていた。今すぐにそれまでの努力を無にしてしまうことはできなかった。彼女は強さを維持しなければならなかったのだ。
そんな考えを払いのけようとして、彼女は雨の中へと飛び出していった。その朝は太陽が昇っていないようにさえ思われ、土砂降りの雨はあらゆる色彩を鈍らせていた。その激しさは、まるで捨てられた心のむせび泣きのようだった。海もまた荒れており、彼女の足元に激しく打ち寄せた。景色はどこか歪んだように見え、その穏やかな美しさはもはやそこにはなかった。

 

第27日

仄暗い日々が過ぎていく中で、あらゆるものが次々と変わっていった。
X.はかつての自分に戻っており、心の中のわずかな改善の兆しは、ずきずきと痛む傷跡のように彼女を刺激した。眠れぬ夜が続いた。彼女の不満は周囲の環境にも影響を与えているように思えた。雨は何日も降り続き、彼女は家の中に閉じ込められた。彼女が耳にする唯一の音楽は、 断崖に建つ家の壁をまるで家ごと根こそぎにしようとするかのように揺らす、風の唸り声だった。X.は心の奥底ではそうなって欲しいと願っていた。彼女は全ての幻想や幻影を引き剥がしたいと思っていた。完全回復までの道のりはまだ遠かった。
X.は自分自身に、そして自分を閉じ込めるあの場所に苛立っていた。それは遅かれ早かれ必ずや彼女の上に崩れ落ちてきたであろう。彼女は再び自分を苦しめる考えから逃れることを切望したが、その脚は疲労で動かず、逃げ去ることもままならなかった。彼女がどこに行こうとも、常に同じ思考に囚われ、常に不満がもたらす慢性的な痛みに苛まれていた。彼女はかつてないほどの無力感を味わっていた。自分自身のことに対処できないのに、いったいどうやって他人と関わることができようか? 再出発へのこの試みが失敗すると思うと、身震いがした。彼女のポジティヴな意志は、今やどうしようもなく愚かなものに思われた。しかるべき時に物事に反応し対処することができないというのに、自分の過ちに気づくことに何の意味があるというのか?
X.は、自分自身と自分の人生を心から憎み、真っ二つに切り裂かれた気分になった。そんな感情を何度となく抱き、ただ眠りに陥り、二度と目覚めたくないと何度も思った。彼女は自分の本当の限界にぶち当たることにうんざりしていた。もしかしたら彼女の唯一の希望は夢の中にあったのだろうか? 永遠の眠りに就くことさえできれば...。かつての自分を捨て去り、Y.との新たな人生を夢見ることができればどんなに素晴らしいことか...。そんな風に考えていると、嵐のようなY.のイメージが今一度彼女の心に溢れてくるのだった。X.は、彼が夢の世界のある部分において重要な役割を果たしていると感じていた。その部分には彼女はまだ足を踏み入れていなかったが...。彼を通して、彼女もまた旅の熟練者となり、幸運なエリートのようにその身を完全に夢に委ねることができたのだ。X.は、Y.がこの修練のより大胆なテクニックを熟知していると確信していた。彼女は彼を見つけ出さなければならなかった。彼女は何としても彼と再び接触しなければならなかった.....だが、そうすることはすなわち、深く眠りに陥るということだった。
現実を捨てたいという抑えられない欲望に取り憑かれていたX.は、安眠を貪りたい時にいつも頼みにしていた鎮静剤を取り出そうと、スーツケースを手に取った。一刻も早く欲しいと思った彼女は、すぐさまスーツケースを開け、その中身をベッドの上にばら撒いた。
だが、期待とは裏腹に、スーツケースから出てきたのは、彼女の所持品ではなく、大量の紙だった。象牙色した紙片が淡い色の紙吹雪のごとく宙を舞った。困惑したX.は、空の鞄を投げ捨て、身を屈めて紙片を一枚拾い上げた。それは不鮮明な手書き文字が書かれた一枚のページに過ぎなかった。そこに何が書かれてあるか解読できなかったが、その紙片からは、不穏ながらどこか馴染みのある感覚が伝わってきた。
少し時間がかかったが、彼女は残酷な真実に気づくのだった。X.は夢を見ていたのだ。
ショックを受けた彼女は、あたかもそれで火傷を負ったかのように紙片を落とした。そして、鏡やデジタル時計、食べ物や他の日用品など、自分が居ると思っている場所に実際に存在していることを証明してくれそうな物を、必死になって探した。だが彼女は何一つ見つけられなかった。彼女の周りにあるものは全てが虚構に過ぎなかった。彼女の夢の最新の創造物だったのだ。この時を除いて、彼女はこれまで真実と虚構の区別をつけることができなかった。X.は実際にここに来て滞在したわけではなかった。これらの長い日々は、現実と思われるような幻想に過ぎなかった。彼女がそれに思いを巡らせるのをやめると、海岸へと赴いた旅の記憶も、食事をしたり服を着替えたりした記憶も無くなってしまった。X.は人生の中でこれほど長く夢を見たことはなかった。そして、この数日で考え、感じ、触れたものがイマジネーションの創造物に過ぎなかったという事実は、彼女を心の底から動揺させた。彼女は目覚めなければならなかった。彼女は是が非でも、この恐ろしい悪夢を捨てて、現実に戻らなければならなかった。実際のところX.は、やけになって自分自身に一撃を加えるのだった。それが彼女を目覚めさせてくれるという見込みのない希望を抱きながら...。だが、何も起こりはしなかった。
今度ばかりは、彼女は永遠に囚われの身となっていた。

 

『目覚め』

 ドアが開くと、戸口を背に影が立っていた。X.は、振り返るまでもなくそれが誰なのか分かっていた。彼に違いなかった。彼女を追い求め、誘惑し、最後には、彼のイマジネーションの虜となった彼女を捨ててしまった張本人だ。他にはX.がこの夢を捨てられない理由はなかった。それこそが彼の数々のトリックの一つだった。彼女はそれにもっと早く気づくべきだった。おそらくは、彼が彼女の意識と自分のそれを繋ぐ通路を作り、彼の創造物である異なる幻想世界へと彼女を導いた時に...。彼の巧みな操作は、彼女を混乱させ、夢の次元で自分を見失わせた。彼女が夢と現実とを、夜と昼とを混同するまでに...。だが、彼女に理解できないことが一つあった。
「多くの人の中から、どうして私を選んだの?」
Y.は手を差し伸べたが、彼女はそれを拒絶し、ベッドに座ったまま視線を落として空っぽの鞄をぼんやりと眺めた。
「答えて。どうして私をここに連れてきたの?」
Y.は手を引っ込め、説明を始めた。「僕がこの夢に君を連れてきたのではない。君自身がこれを創ったのだ。」
「嘘よ!」X.は突然そう叫び、彼に詰め寄るような視線を投げ掛けた。「あなたの言うことが本当なら、私は目覚めてこの場所から逃げ出すことができるはずだわ。でも私は、こうしてここに閉じ込められているのよ!」そして彼女は立ち上がり、彼を指差しながらこう付け加えた「全てあなたが悪いのよ。私の目の前にいるあなたが...。他には誰も私のところに辿り着く術を知らないはずよ。」最後の言葉が口を突いたとたん、X.は彼に浴びせかけた言葉の激しさに自分ながら驚いた。数時間前ならば、彼女はもう一度彼と会うためになら何だってしていただろう。だがもはや彼女は彼を怖れていた。彼の能力を怖れていた。
Y.の答はただ腕組みすることだけだった。その沈黙を罪の告白と解釈したX.は、紙片を拾い上げ、それを彼の目の前で振りかざしながらこう言った「あなたの大切な紙束がどうして私のイマジネーションに現れることになったというの?!」そして、まるで入海をすっぽりと取り囲むかのように大きく両腕を広げながら、彼女はさらに付け加えた「これは美しい絵なんかじゃない、って私に信じ込ませようとしてるでしょう?」
今度はY.が一歩前へと踏み出し、厳しい言葉を投げ返した「君は間違っているよ。海岸へ戻って来たがったのは他ならぬ君だし、僕のノートを奪ったのも君だ。そして君は愚かにも...」
「何をしたというの?!」X.は彼の言葉を遮った。
少し言い過ぎたと悟ったY.は、声のトーンを明るくした。「眠っている間に、君は階段から身を投げ出したんだ。」
X.が、断崖から身を投げた刹那に感じた完全な、そして恐るべき自由の感覚を思い出すと、ぞくぞくするような震えが背筋を走った。
「真実を話せば、君はまだあの夢から目覚めてはいないんだ。そして、意識を失った君の身体は何日も病院のベッドに横たわっていて、生と死の間を彷徨っているんだよ。」
この衝撃の事実は彼女を完全に沈黙させた。そしてY.が言葉を続けた。今度は寛容な口調だった。「だから君は目覚めることができないんだ。君を痛みや苦しみから守るために、潜在意識がこの偽りの風景を創造したんだ。君は癒しを求めてここにやって来た。だがその代わりに、君が感じ始めた不安は日々刻々と君を真実に近づけていった。そして君の心は偽りに耐えられなくなり、ついに魔法は解けてしまったんだ。」
「分からないわ!」X.は頭を抱えながら叫んだ。「あまりにも変よ...」
「そうさ」Y.は彼女の肩を抱えながら答えた「だけど、意識を失ったまま今も眠っていることを君は理解しなければならない。だから目覚めることができないでいるんだ。君の心は何事も無かったかのように夢を見続けた。そして、やがて僕と僕のノートの記憶が甦ってきた。君の心は、君が確かにそれを持ち帰ったことを思い出したんだ。だから、それが想像の世界に現れたんだ。」
X.は静かに耳を傾けた。微動だにせず一語一句を噛み締めながら、何とかY.の告白を受け入れ、それと先程までは真実だと思っていたこととを擦り合せようとした。しばらくの沈黙の後、ついに彼女は彼に問い掛ける勇気を見出した「回復する見込みはあるの?」
「全ては君次第だ」Y.はできるだけ楽観的に聞こえるように答えた。
「どういう意味?」彼女は、彼の声色に宿る不安を察知しながら再び訊ねた。
「こちらにおいで----君の理解の助けになるものを見せてあげよう。」
X.は躊躇いながらもY.の言葉に従った。Y.は左の手のひらを彼女の胸の真ん中に優しく置いた。すると彼女は、奇妙な温かい感覚が身体にみなぎるのを感じた。それはまるで、彼が触れることで身体の奥に埋まっていた何かが目覚めたかのようだった。数秒の後、Y.がゆっくりと手を離すと、握り拳より少し大きな虹色に輝く球体が彼女の身体の中から浮かび上がった。Y.の指がその物体の表面をなぞった----触れることなく----まるでそれを取り出そうとするかのように...。そして物体が出てくると、中空に浮かんだ。闇の中に脈状に広がる銀色の光線がその中心から発せられており、二人の間の狭い空間を光で満たしていった。
「これは何なの?」彼女は純粋な好奇心から不意に訊ねた。
Y.は彼女に微笑みかけながら答えた。「これが君のシークレット・スフィア。誰しもが持つ芸術の源を象徴するものさ。それを覚醒させる力がある人もいれば、感情の壁が障害となって、それが眠ったままの人もいる。誰かに課されたのか自ら作り上げたのかに拘らず、ね。言い方を変えれば、情熱と感情の源ということさ。」こう言うと、Y.はX.の左手を取り、自分の方へと引き寄せ、胸まで近づけた。そして再び口を開いた「今、何を感じてる?」
X.は集中したが、冷たく曖昧な感覚しか得られなかった。彼女は本能的に身を引こうとしたが、Y.は彼女をそのままの位置に押しとどめた。
「何を感じている?」
X.は冷静でいようと努めたが、それは容易ではなかった。あたかも、彼女の目の前で身のすくむような深淵が口を開けているかのようだった。
「私の指は冷えきっているわ」ほどなく彼女はそう呟いた。「まるで、あなたの中の何かが私のエネルギーを残らず吸い取っているみたい。」
不敵な笑みを浮かべてうなずくと、Y.は手の平を上に向け、くすんだ黒の球体を受け取った。それは、たった今自分の胸から出てきたものだった。そして、Y.のスフィアはX.の手の平にずしりと乗っかった。まるでこの小さな物体に無数の物質が詰まっているかのように...。彼女は遠くに鈍い鼓動を聞いた。
「ごらん、これが僕に残されたものの全てさ。」Y.がこの言葉を口にした時のトーンは極めて侘しく、それゆえにX.はこの小さな黒い球体を本能的に手で包み込んだ。あたかもそれを守ろうとするかのように...。
「僕が君のところに来たのは、夢生活の乱用が招く危険について警告するためなんだ。かつては僕のスフィアも生き生きと輝いていた。虹色に光り、僕という存在の機微を伝えていた.....だけど、だんだんと灰色にくすんでいき、ついには黒く染まってしまったんだ。」
Y.のその言葉はX.の表情に影を落としたが、彼は慌てて彼女を安心させようとした。「怖れることはない----君にはまだ希望がある。」
「中心部を包む黒いものは何なの?」未だ納得できないX.は訊ねた。
「それは身体の中に染み込むのを許してしまった毒だよ。手遅れになる前に根絶しなければならない悪さ。」
とりあえず納得したX.は、彼と視線を合わせ、出会った時からずっと抱いていた疑問を彼に投げ掛けた。「いったいあなたは誰なの?」
眉をひそめたY.は、彼女から離れ、入海を臨む開け放たれた窓の方へと向かった。風が彼の長い髪を掻き乱し、雨が彼の顔を濡らした。まるで空が涙を流しているかのようだった。
「もはや自分の名前さえも覚えていない。分かっているのは、かつて芸術家だったということだけさ。」
X.は困惑して彼を見た。Y.は続けた「そのことを自覚したのは、一枚の紙に記された自分の影を自分自身で見ていることに気づいた日のことだった。その頃、自分の指先は何かを語りたがっていたんだ。当時は、僕もまだ空想することが、動くことなく旅をすることができた。本のページの間に潜む緑の谷を駆け抜けていたんだ。僕は幸せの国を空想していた。そこでは綺麗な空気を味わうことができた....現実の鉛のような鬱陶しさとは無縁だったんだ。僕のイマジネーションは、夢の気球で空高く舞い上がるために重荷を減らしてくれる魔法だった。時に日常生活の重荷は、起き上がれなくなるほど重くなる....そんな風に僕は苦しみ、無力感と挫折の狭間で縮こまっていたんだ。芸術とは終身刑のようなものであり、芸術家は、たとえ誰かに才能ある選ばれし者と称されたとしても、哀れなインスピレーションの奴隷に過ぎないんだ。芸術は我々に取り憑き、我々をその輪に巻き込んでしまう。創造の最中も我々をその狡猾な無限の力で引きずり回し、沈黙が頑に音楽となるのを拒む時、我々を底なしの淵へと叩き落とすんだ。最も厄介な自制は、自己満足からの自制だ。そして渇きは、意識を消し去ることによってのみ癒されるんだ。」Y.の口調は苦々しかった。X.は彼に哀れみを感じていた。
「自分自身から逃れることを痛切に望んでいたんだ。自分の心の期待に応えなきゃいけないという切迫感から逃れることを...。最初は、芸術家仲間の一人が手っ取り早く心の安らぎを得る方法を薦めてくれた。彼は明晰夢の技術を教えようと言ってくれたんだ。僕は旺盛な好奇心をもってその修練について学んだよ。」
X.は思わず自分自身のことに、そして夢航海の技術の修得と実践に費やした努力、とりわけ始めたばかりの頃のそれに思いを馳せていた。
「夜に従うと、瞬時のうちにどんな願いも叶えることができた。夕日を浴び、嵐の匂いを吸い込む。そうしなれば触れることができなかった自然のあらゆる力を体験することができたんだ。僕は新たな芝生に根を生やし、風に向かって腕を、そして目を大きく開いた。その景色に自分自身を刻み込み、流れゆく時間や季節や年と共に絶えず変わっていくその姿に敬意を表するために...。物事の成長を異なる人格の意識をもって観察するために...。僕は異なるリズムで生活を送った。樹齢何百年ものナラの木の皮の下に入り込んだり、あるいは、川床に置き去りにされて渦巻く流れに飲み込まれたり...。」そんな瞬間を思い出す時、Y.の情熱的な眼差しは、水平線の遥か彼方を捉えながら、驚嘆を帯びて輝いていた。
「だけど、救済こそが僕の命題だった。僕は明晰夢がインスピレーションの源として使えることに気づいた。そして、限りなく鮮明な描写ができるようになると、ついには想像のシナリオの背景に溶け込んでいたんだ。そんな風にして僕は、僕の物語の登場人物たちと直接交流ができるようになっていった。彼らを知ることで、さらに容易に彼らを描き出すことができた----その性格やしぐさ、行動などを...。一夜一夜と経るたびに、その舞台は僕の家となり、登場人物たちは僕の家族となっていった。他に住みたいと思う場所はなくなり、他に過ごしたいと思う人はいなくなった。そして知らずのうちに、僕は崖の上の家に居を移し、僕の最新の物語のヒロインと恋に落ちていたんだ。僕らは二人で物語を書いた。彼女はそれまで感じたこともないような激しい感情を僕に書かせた。そして僕は、人生そのものよりも彼女を愛することでそれに報いた。僕は彼女に夢中になっていた。その熱烈な魂と永遠の美しさに心酔していた。彼女は手なずけることのできないミューズであり、彼女の腕の中でなければ生きていけないと思うほど僕を虜にしたんだ。僕の夢に君臨する女王.....太陽さえもその魅力の犠牲となり、永遠の黄昏に没してその勢いを失ったんだ。」
彼女のために他の全てを諦められたというのなら、彼は彼女を狂おしいほどに愛していたのは間違いない。X.は、二人の姿を、崖の上の隠れ家で愛の抱擁を交わす姿を思い描きながら、嫉妬がもたらす本能的な痛みをはっきりと感じていた。だが、あの場所のことを思い浮かべると、悲しみの波が他の全てを覆い隠しながら、彼女に押し寄せてきた。一時は彼らの神殿であったものが、忘却によって見捨てられ、蝕まれ、もはや古びた紙束の霊廟と化していたのだ。彼らが分かち合った熱情を示すものは他には何も無かった。
「彼女に屈しながら、僕は刹那と永遠の境界に思いを巡らせた。そして、自分が目標に達していたことに気づいたんだ。僕は自分の起源を、かねてから経験したい、詩を通して表現したいと夢見ていた熱情の源を発見したんだ。だけどその頃には、僕はもう何も書けなくなっていた。感情の力を除く全ての力を失っていたんだ。その上、僕の一部は相変わらず抑制されていた。身体的自己の抑制フィルターによって抑え込まれていたんだ。そうして僕はある夜、決して目覚めないことを願って眠りに就いた----僕が純然たる魂のように循環できるようになり、完全な形で彼女と一体となることができたのは、その時が初めてだった。それが彼女を自分のものにした夜だった.....そして僕が死んだ夜だった。」彼の声から滲み出る苦悩は、手で触れられるかと思うほど鮮明だった。そしてX.は自分が彼の失意の中に溺れていくのを感じていた。
「終焉を迎えたのは、全てが再び始まろうとしていると誤解したその瞬間のことだった。僕はいくつもの水平線を越えて旅をし、いくつもの顔を描いてきた。夜な夜な僕の天体が、僕の魂から離脱した体外の次元にある、密集したクモの巣に徐々に絡めとられていたとは気づかずに...。気づかないまま僕は夢を見ることに固執し、夜ごと我々の身体が実体化するにつれ、あの世界の輪郭も鮮明になっていくことを喜んでいたんだ。」Y.は彼女のほうを振り向き、さらにこう付け加えた「そして、同じことが君にも起こるんだ。もしも明晰夢を見続けるなら、君は破滅してしまうだろう。」
X.は、夢を見なくなることはすなわち彼を永遠に失うことだと知りながら、不本意ながらも頷いた。もし彼が夢の中で本当に死んでしまったら、現実世界で彼に出会うという望みは失われてしまうのだ。
「ということは.....今あなたはこの次元だけに存在しているというの?」
Y.は窓際へと戻り、それに答える代わりに厳しい口調でこう言った「君は癒されなければならないんだ。これを限りに現実へと戻るんだ。」
彼が露にした冷淡さは、彼のスフィアを包む左手を握りしめてしまうほどにX.を苛立たせた。彼は、まるで彼女に握りしめられたのを感じたかのように振り返り、こう口走った「いったい何が問題だというんだ?!」
その反応はX.を驚かせた。彼も痛みを感じることに気づき、その人間的な側面を初めて知ったからだ。しかしながら、彼女は彼の激しい言葉を受け止めるだけでなく、言い返すのだった「私にあなたを追わせようと何でもしてきたというのに、今度は私を追い返そうとするなんて矛盾しているわ。」
彼女の言わんとすることを察知したY.は、出来る限りの弁明に努めた。「君は間違っている....君のところに来たただ一つの理由は、君が冒している危険について警告するためさ。ただそれだけだということを誓うよ。」
明らかなことを頑に否定する彼に苛立ち、X.は言葉を返した「あなたも私に愛情を感じていると、どうして認めないの?!」
不意を突かれたY.は、すぐには答えられなかった。そして、どうにか答を見つ出した時、彼の声は物悲しい屈服感に包まれていた。「君は僕らの関係を誤解している。君が体験したのは、調和に過ぎないんだ。それは二つの似通った魂が、言葉の壁や素性や年齢を越えて触れ合った時に生じるもの。同じ原型に属する二つの魂がお互いを認知し、感情を共有し合った時に...。そうした希有な瞬間にこそ、我々の魂は満足感を得る。なぜなら、人生とは他人の中に自分自身を見つけ出すことに過ぎない、他人という存在の一要素として各々の運命を全うすることに過ぎない、ということを知るからなんだ。この感覚は、現実世界で惹かれ合うこと以上のもの。純然たる魂の交流さ。君はそれを愛と混同すべきじゃなかったんだ。」X.は、これらの言葉を聞いて、足下の地面が崩れ落ちるかのような感覚に陥った。あたかもY.が実際に攻撃してきたかのように...。だが、悪夢はまだ終わってはいなかった。
「僕への想いが君をますます明晰夢へと向かわせていると気づいたとたん、僕は立ち去ったんだ。だけど、それでは遅すぎた」彼はそう締め括った。そこには、彼女が陥った状況に対する罪の意識が横たわっているかのようだった。X.は理性ではY.の主張を受け入れようとしていたが、彼女の心はそれを認めようとはしなかった。
「二人で海へと降りていったあの夜は、あなたにとっては何の意味もなかったということなの?」
それに答える代わりに、Y.は本音を隠すかのように目を逸らした。だが、まだ彼女の手に握られていたY.のスフィアは、弱々しい鼓動に駆り立てられながら、今ひとたび生命の証を示していた。
「じゃあ、どうして私のところに戻ってきたの?」
「僕の使命は、君の目を自分の犯した過ちへと向けさせることだった。僕自身が失敗を取り戻して、最終的にはこの場所を去るためにね。」だが、Y.の答は彼が望んだほど自分本位には聞こえず、X.はそれ以上のものがあることを感じ取っていた。もしもY.がX.に対する気持ちを明かせば、彼女は決して現実世界に戻ろうとはしないだろう、ということを彼は分かっていたのだ。
「ならば、どうして最初から正直に言わなかったの?」彼女は彼に問い詰めた。「出会った最初の夜に問題を解決しておくべきだったのよ。躊躇うことなく責任を果たしておくべきだったのよ。」
「僕に何を言わせたいんだい?」それがY.の陰鬱な返答だった。「君がいたから僕が留まっていた、と?」彼のスフィアの鼓動はだんだん高鳴っていき、それがX.に彼の方へと詰め寄る勇気を与えた。Y.の表情には影が落ち、その唇は抵抗を示して固く結ばれながらも、視線は彼女の方へと向けられていた。にもかかわらず、X.は今なお彼を美しく唯一無二の存在だと感じていた----それゆえに、たとえ死がその敵になろうとも、なんとか彼を勝ち得たいと思うのだった。
「そうよ、だってそれは真実なのだから。」そう言いながら、X.は彼の目の前で立ち止まり、握っていた手を開いた。Y.のスフィアの薄暗い青は、かすかに光る白へと変わっていった。
「見て、あなたの心があなたの姿を示しているわ----まだ希望があるということよ。」
だが、Y.は首を振り、彼女に振り返るよう指示した。X.がそれに従うと、その視線の先には、彼女の夢も希望も沈めてしまうものがあった。彼に詰め寄る時に後ろに置いてきた彼女自身のスフィアは、その輝きを失っており、今やかなり重くなっているように見えた。
「この希望は相当な犠牲を強いるんだ。」そう言ってY.は彼女の目の前に移動し、その手で彼女の顔に触れながら、こう付け加えた「ようやく分かったかい? 僕と共に時間を過ごすたびに、僕らが感情を共有するたびに......君は生命エネルギーの一部を僕に与えているんだ。このペースでいけば、君はまもなく枯渇してしまい、君の身体に戻れなくなってしまうんだ。」そう言うと彼は、自分のスフィアに手を伸ばしながら、再びその場を立ち去ろうとした。だが、X.は改めてそれを握りしめ、その手を引っ込めた。
「あなたは私にどうして明晰夢を見始めたのか訊ねようとしないわ」彼女は後ずさりしながらそう切り出した。
Y.は彼女が時間稼ぎをしていることに気づきながらも、それに付き合おうとはしなかった。「そんなことは重要じゃない」彼は手を差し出しながら言った。「返すんだ。」
「いや、重要なのよ」彼女は目を潤ませながら答えた。「ずっと孤独に苛まれてきたわ。何が私をこんなにも苦しめるんだろう、どうしてこんなに必死に愛を求めるんだろう、と悩んできた。感じたこともないものをどうして恋しがることができるんだろう、と不思議に思った...。私が苦しんでいたのは私に自己表現の力が無かったから、ということに気づかなかったのよ。」
Y.は少し歩み寄ったが、依然として一定の距離を保っていた。X.の真意が掴みきれず、彼女を刺激したくなかったからだ。
「誤解されるのを怖れて、自分の殻に閉じこもっていたわ。自分の感情を恥じ、他人の嘲笑を怖れていた...。自分の夢を断念させられるのが怖かった。それを達成できなくなるのが怖かった。代わりに、音楽や芸術や愛によって自己表現するほうがいいと分かったの.....繰り返される日常の犠牲になる前に、他人に自分の決意を具現化される前に、それを実践するエネルギーがあるのならば。さもなければ、一生夢遊病者となる危険を冒すしかない...。私たちは個の世界から抜け出さなければならないわ。暗い部屋を出て、生きなければならない。私たちはみな自分を満足させる資質を持っているのよ。」X.は部屋の隅に達し、このように締め括った「あなたのおかげで分かったわ。私たちはみな、お互いに励まし合い、育み合うためにここにいるということが。」
彼女がこれらの言葉を発した時のきっぱりとしたトーンは、彼を驚かせた。彼はもう彼女を止めることはできないと気づいたのだ。にもかかわらず、彼女が拳を掲げて開こうとした時、彼は彼女に突進し、それに飛び付こうとした。
だがX.の方が速かった。彼女が手を胸の高さまで持っていき、それを開くと、スフィアを自分自身に押し当てた。するとそれは、彼女の中へと消えていった。

 

『エピローグ』

 声が歌を響かせ、二つの心が鼓動を重ねながらそれを聴いている。

 数年の時が浜辺の貝殻のように静かに過ぎ去った。そして、記憶の風が音楽を奏でながら彼らの間を吹き抜けた。歌は訳知り顔の優しさを示し、それを作曲した男のこめかみのごとき美白の輝きを放っていた。毎朝、彼は不思議な気持ちで自分の姿を鏡に映し、彼の心を再生してくれた人に感謝するのだった。今や彼の身体はすぐに疲れてしまった----だがその魂は、多くの感情に支えられ、いかなる時も強く揺るぎないものであり続けた。遠い過去にもそうであったように、彼にとって感情とは、今も唯一の希望であり、唯一の生きる意味であり、真に存在することとただ人生をだらだらと進むことを分つ境界線であった。だが、今やそれはリアルなものだった。もはやそれが逃げたり追い掛けられたりする必要はなかった。全てそこにあった。ほんの一歩先にあり、手に触れることができ、慰めとなるのだった。彼の心は、どういうわけか救われる人から救う人へと変わった彼女に、大切にされていた。同様に、彼は自分の中で彼女という存在を、そして彼女の過去を守っていた。彼は常に彼女と一緒にいた。毎日、いつ何時も、そして毎夜。彼女は彼を救い出してくれた力であり、彼の意識がその死を疑わないほど長く閉じ込められていた深淵から、彼を引き離してくれたのだ。そして今度は、彼が彼女を大切にする番だった。彼のそばにいるために自分の力を投げ出してくれた女性を...。彼女は多くを犠牲にしたが、それは自らの意志であった----白日の下で堂々と彼に愛を捧げられるということは、この上ない贈り物だった。

 X.は再び沈みゆく太陽に見入っていた。今回ばかりは、独りで夕暮れを眺めているのではなかった。時間は残り少なくなっていたが、Y.のおかげで後悔はしていなかった。初めて彼女は、果たされない望みを残すことなく眠りに入れそうな気がした。彼らは二人で深遠かつ情熱的な生活を送っていた。彼らは二人の物語の糸をほどけないように結びつけ、彼らが心から寛げるような新たなシナリオを再び創造し、そして、それを二人の子供の好奇心と共に追体験していった。彼ら二人は新たな命を産み出した。二人はこの新たな世代に過ちや勝利を伝えるのだった。これ以上見出すべきものは残されていなかった。Y.の歌の最後の一行を除いては...。彼は優しい愛を込めてそれを囁いた。あたかもそれが彼の唯一の女神へと捧げる祈りであるかのように...。それは、音もなく言葉もない歌であり、純粋に魂を表現したものだった。

 X.は彼の中で、そして彼らの周囲の全てのものの中で自分が生きていることを感じていた。だが彼女は疲れ果てていた。呼吸は弱々しくなり、まぶたは重くなっていた。なおも歌い続けていたY.は、優しく彼女を抱き起こした。その溢れる優しさは、彼女が彼の麻痺した脚を自分のものとして以来、何十年も彼が彼女を抱き上げてきた時と同じものだった。Y.は、この歳になっても常にそうする力を見出すことができた。彼は、新たな水平線へと航海するための羅針盤と船体となっていた。それまでもいつも二人で旅に出掛けていたように、最後の航海も二人で乗り出すのだった。

 彼は、一歩進むたびに二人のエネルギーが減じていくのを感じた。そして、夜の帳が降りると共に二人の心臓の鼓動が弱まっていくのを感じた。一言一言が夕刻の影のごとく長くなっていき、彼の声は夜の深まりと共に低く沈んでいった。彼の歩みが玄関へと近づくにつれ、その最後の足音は紫に染まる夕暮れの中に容赦なく消え入った。ヴィオラが奏でる夜の和音のごとき呼吸は彼女への刺激となった。それは二人が出会った時のような思慕に充ちたものだった。X.は既に目を閉じていたが、その唇は、彼女が愛した魔法のオーラに浸りながら、微笑みの曲線を描いていた。Y.は彼女を優しくベッドに寝かすと、彼女の隣りに横になり、彼女を完全なものにするのだった。彼の声が弱々しく消えていくと、静かな星のコンサートが窓の向こうから聞こえてきた。そしてY.はその光景が醸し出す安らぎに身を任せるのだった。

 彼らは夜に従い、ほどなく新たな永遠の夢の中で再び目覚めるのだった。




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